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思いさすらう...Jeg gaar i tusind tanker (「19のノルウェー民謡」op.66 nr.18)

グリーグの「19のノルウェー民謡」に絡んだ話をときどき書いてきましたが、
今回で、たぶんひとくぎりになります。

20年前、初めて「19のノルウェー民謡」をAM放送で聴いたとき、
聴きながら窓から見た空は青く晴れていました。
この記憶が正しいのかどうか、ほんとうにあのときわたしは空を見ていてその空は晴れていたのか、
実はあまり自信がありませんが、記憶ではそうなのです。
その後、このとき録音したエアチェックテープを聴くと、わたしはしばしば、そのときの窓の外の青い空を思い出しました。
とくに、第14番の「オーラの谷で、オーラの湖で」、17番の子守唄、そして今回取り上げるこの第18番の曲を聴いているとき、そうでした。
空のあざやかな青、その青みの深いあまり、翳るほどの青。
そうした青を湛えた窓の向こうの空が、聴くたびに浮かんできました。

幼い頃のわたしに空の青を教えてくれた人は何人かいて、
わたしはそのときまでに空をときどき仰いで見るようになっていましたが、
空の青の翳りを知ったのは、たぶん初めてあの曲を聴いたその頃だったと思います。
その頃でもまだ幼かったのに、過ぎ去った日々ばかりが懐かしくて、
それがどうしても二度とは戻ってこないということを初めて痛んで知った頃でもありました。
この曲を聴いたとき、その気持ちが、この曲の音の移ろいの上に、あざやかに浮かび現れてきました。
自分が抱いて放せない気持ちがもうすでにそこに音楽になって流れていた、そんなようでした。
自分のそれまでの人生をその音の移ろいに籠めるようにして、聴いていました。

「19のノルウェー民謡」のそれぞれの曲の題名は放送で紹介されなかったので、長いこと知らずに聴いていました。
少し経って、めったに行かないレコード店で、イザベル・モウランが弾くグリーグのピアノ作品集LPを見つけて、それを買ったのですが、
その付録にたしか大束省三さんが作成された(…のでなかったらたいへん失礼しました)グリーグのピアノ作品のリストがあって、
それで「19のノルウェー民謡」のすべての曲のタイトルを知りました。
意外なもの、意味がわからないものなどいろいろありましたが、
この第18番のタイトルを見たとき、熱い気持ちがしたように憶えています。
そこには、たしか「私は千々の思いに彷徨い歩く(*1)」とありました。

この曲は、グリーグが手がけた作品のうちでは、ロマンティックな類に入ると思います。
グリーグは自作の歌曲をいくつかピアノ独奏曲に編曲していて、それらのほとんどは原曲の旋律を伴奏や和声を変えて数度繰り返す構成をとっています。
このときしばしば、旋律を繰り返すごとに伴奏の音が厚くなっていきます。
「19のノルウェー民謡」の第14番や第18番も、元の旋律が繰り返されながら伴奏が変化していくという歌曲編曲的な構成をとっていて、
この曲集に含まれるそれ以外の曲の扱いとは顕著に異なっています。
とくにこの18番は、和音がしだいに厚く濃くなっていきます。
グリーグはそうした作り方の作品を多く残しているので、ある意味ではグリーグ的と言えるでしょうし、
いっぽう後年の作品でみられるような実直な端正さがグリーグの到達点なのだと考えるなら、厚めの和音がある意味ロマンティックに繰り広げられる第18番は、
それとはちがう線の上にあるとも言えるだろうと思います。
わたしは初めのうちは第14番や第18番がとても好きだったのですが、
歳をとるにつれ、民謡を素朴に(ただし微妙な情緒でもって)扱った他の曲が好きになってきました。
グリーグ編曲でない、民謡の唄い手の方々が唄うノルウェー民謡を聴くようになったのも関係あると思います。
一時期、第18番は自分は好きだけれどグリーグの代表作とは言えないだろうなあ…と考えたこともありました。
それが、このごろまた、第18番に気持ちが行くようになってきました。
なぜなのか、よくわかりません。
ただひょっとしたら、過ぎ去った夢や叶わなかった夢を、もう叶うことのないままにふたたび夢見るのだっていい、ということが
少しわかるようになってきたためかも、と思ったりしています。

他の記事で書いたように、
「19のノルウェー民謡」は、グリーグの友人のフランツ・バイエルがノルウェー西部各地で書き取った民謡を、グリーグが編曲して作品化したものだそうです。
この第18番の曲 Jeg gaar i tusind tanker は、adagio religioso(ゆっくりと、宗教的に)という指示がされていますが、
実はもともとはデンマークの歌で、それもラブソングだということです(*2)。
福岡のCDショップのワゴンセールでたまたまデンマークの合唱団のCDがあって(*3)、
その曲目にこの曲と同じタイトルの歌が入っていて、買って聴いてみたら、
「私はあなたを愛してしまった、あなたを思って思って死にそうだ」みたいな歌詞でした。
jeg gaar i tusen tanker は直訳風に訳すと「私は千の思いの中を行く」となりますが、これは慣用表現で、実際は「私は思い乱れる」という意味になるようです。
ついでに言うと、jeg はノルウェー語で「私は」の意味ですが(デンマーク語でもたしかそうです)、ノルウェー西部の言葉では「私は」はjeg よりはegを使うはずで、
民謡でjeg が出てくるのを聴いたことがほとんどありません。
つまりデンマークで生まれた歌が、当時のことなのでおそらく口づてに伝えられて、はるばるノルウェーの山村まで伝わってきた、
そのなごりが歌詞に(タイトルに)残っているのだと考えられます。
旅先のCD店(日本国内です)で見つけたノルウェーのジャズのCDで、民謡をアレンジしたものがあり(*4)、
やはりこのタイトルの曲が入っていたので、それも買って聴いてみました。
歌詞は先のデンマークのCDと少し違っていましたが大意は変わっておらず、ほぼ意味を残したままノルウェー山間部まで伝えられたようです。
ただ、メロディーはかなり違っていて、いかにもノルウェー民謡らしくなっていました。

ところが、グリーグはこの唄に「宗教的に」という指示語をつけて、宗教曲的な多声部的手法も用いて編曲しています。
バイエルが書き留めた民謡の譜面には歌詞が添えてあったようなので(*5)、グリーグはこの唄の歌詞をたぶん知っていたはずですし、
もしそうでなくてもグリーグはデンマークに長く滞在した時期もありますし、グリーグの妻のニーナさんはコペンハーゲンの出身とのことで、
グリーグ自身この民謡のオリジナルであるラブソングをたぶん知っていたのではないかと思われます。
だとすると、おおもとがラブソングな唄を宗教曲風にアレンジするというのはどこから来た着想なんだろう…、とも思います。
何かの事情で歌詞やオリジナルの姿を知らずに編曲したのかもしれないですが。

別のノルウェー民謡でmitt hjerte alltid vanker (私の心はいつもさすらい歩く)という、タイトルが似た唄があり、
そちらは信仰の唄なので、またよく知られた唄なので、
その唄との類似関係をグリーグが感じ取って、あるいはその唄になぞらえて、編曲したのかもしれない、と思ったりもします。

ただ、どうであれ、グリーグは、やっぱりこの唄の題を直訳風に受け取ったのでは、という気がします。
私は幾千もの思いの中を歩いて行く、と。
その言葉には、わたしがレコード付録のグリーグピアノ曲リストを見たときに感じた、
人の人生の歩み、そしてそれを包む大きななにか、
そういったものを感じさせるニュアンスが読み取れる気がします。
でも、
歩いて行くのは人ばかりではないかもしれない…。

デンマークで生まれた、あなたが恋しいと歌うせつないラブソングが、
人づてに、口づてに伝えられて、たくさんの人々の思いの中を通って、
はるばるノルウェーの山の村まで伝わってきた。
歌詞を変え、メロディーを変え、その姿を変えながらも、そのこころだけは保ち続けて。
この唄こそ、さすらい歩いてきたのでは。jeg gaar i tusind tanker、それはこの唄そのもののことなのでは。
そのことを想像するとき、わたしには、なにかそれをとても尊く感じる気持ちがあります。
宗教的、なのかどうかはわたしにはなんとも言えないです。
が、この唄が伝えられ、はるかな道を歩いてきた、そのことには、
おおげさかもしれませんがたとえば故国を離れてはるか異国の地を布教して歩く宣教者の姿、
あるいはそうして人から人へと土地を越えて伝えられていく信仰そのものと、
どこか同じように感じられるものがあるように、わたしには思えます。
グリーグが、ノルウェーの村で再発見されたこのデンマーク発祥の唄に、そのような感じを抱いた、と断言するのはとてもむりです。
が、はるかな旅をしてきたこの唄を、グリーグが敬虔に迎えたということだけはたしかなのでは、と思います。

その唄は、グリーグの思いを経て、とうとう、はるばるこんなところまで届けられてきた。
それはほんとに、奇跡なのかも、と思います。


脚注

(*1) 「私は千々の思いを彷徨い歩く」だったかもしれません。リストの現物が残念ながらいまありません。
(*2) CD: BIS(Sweden) BIS-CD-111 Edvard Grieg: The complete piano music. Booklet by Dag Schjelderup-Ebbe.
(*3) CD: Danica(Denmark) DCD8159 Der staar en lind.
(*4) CD: ODIN(Norway) NJ4047-2 Toner fra Romsdal.
(*5) Edvard Grieg : the man and the artist / by Finn Benestad and Dag Schjelderup-Ebbe
(translated by William H. Halverson and Leland B. Sateren); Lincoln : University of Nebraska Press, 1988.
のP.335に、「19のノルウェー民謡」の他の曲の原曲民謡の採譜楽譜が載っており、そこには歌詞が書かれています。
2002年06月14日 21時58分10秒


 

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記事作成:さんちろく