私事(ネット外)で先日苦しい出来事がありました。
音楽からも遠ざかっていました。今日、ひさしぶりにバッハの平均律クラヴィーア曲集第1集の初めのほうを聴きました。
私は実はリヒテルの演奏を目覚ましに使っていて、いつも嬰ハ長調の軽やかなフーガまで聴いて起きます。以前は次の嬰ハ短調の前奏曲とフーガやその先まで流していたのですが、しばらく前にちゃんと聴いていた際、嬰ハ短調フーガの音がとても痛々しいのに気づいて、流し聞きできなくなってしまいました。
嬰ハ短調フーガはもともとよく聴く曲でした。いくつかの(いくつと断言するのが難しい面があります)動機が緊密に絡み合いながら進んでいく曲で、私が以前よく聴いていたニコラーエワの演奏では曲の半ば頃に現れる槌を打つような動機が主動機とともに強く鳴らされていて、それが好きでした。その後買ったリヒテルのCDでは槌の動機はひかえめで、曲の冒頭から現れて一貫して奏される主動機(その音型が譜面上で十字をなすので十字動機と呼ばれたり、その意味あいから運命動機と呼ばれたりするようです)が強調されていました。
今日、フィッシャーの演奏も含めて三者の演奏を聴きました。曲の構造を超えたところにあるフィッシャーの演奏、動機の絡み合いが見事なニコラーエワの演奏、そのそれぞれに、固有の人生観を感じました。今日の私には、リヒテルの、曲が歩みを進めていくにしたがって主動機が次第に大きく鳴り響くようになり、そしてとうとうすべてをなぎ倒すかのごとくすさまじい音が打たれ、しかしその後でもなお、生き残った動機たちが曲を続けていく、その演奏が、心を打ちました。
2003年6月14日 (11月24日書き直し)