春日のピアノリレーマラソンから2か月。なんだか遠い昔のようでもあります。今日はそのときのことを思い出し思い出ししながら書いてみます。
以前書きましたが、当日は瀧廉太郎の「荒磯」(もともとは「荒磯の波」と題されていたようです)と「憾」を弾きました。
当日の一週間前、廉太郎ゆかりの大分県竹田市に自筆譜を調べに行って、いろいろ発見したり教えられたり考えさせられたりしました(自筆譜検討については他のページで書いているところですが、なお資料を調べたり関係の方に承諾を得たりする必要がありそうなので、書くのにしばらくかかります)。竹田のある音楽関係の方から、「憾」の最後の音は大切に弾いてください、瀧先生はあきらめてはいなかった、希望を持っていたのです、という話をうかがい、もともと最後の音は自分にとっても重大な音だったので熱心に取り組んでいたのですが、ああそうだったのかと思い、本番前日まで悩みながらも練習しました。自分の技術だと「憾」がミスなしで弾けるかどうかというところなので(7月の時点からみるとだいぶ弾けるようになりました)テクニック的にも練習を積むのが不可欠でしたが、それ以上に曲の要求するものも自分が投げ込みたいものも大きくて、いま思うと自分にしては度が過ぎるほど集中して練習しました。
春日のピアノリレーは一人(一組)5分以内の演奏で、今年は152組がエントリーしました。午前10時開始、終演予定が夜8時前ということで、最初の人が弾きはじめて最後の人が弾き終わるまで10時間近くかかります。私は聴くのも毎年楽しみにしているので、今年も朝から客席に陣取りました(ピアノリレーマラソンは聴くほうも「マラソン」だ...という私の発言は参加者の方々からウケをとりました)。さすがに10時間ぶっつづけでは聴けないので途中ところどころ抜けますが(腰は痛くなりますしトイレにも行かないといけないですし)、なるべく聴くようにしています。
プログラム構成は早い時間帯は小さな子どもさんの演奏が多く、発表会の雰囲気です。だんだんと年齢が上がっていって、高校・大学生はほんとうに音楽をやっているという様子の人が多くなります。いっぽうで、自分の楽しみとして、あるいはチャレンジで、ピアノを弾いているという方もその年齢のあたりから増えてきて(コメントの紹介が会場に流れます)、社会人の年齢層では、ピアノの先生や、大人になってからピアノの練習を始めた方や、趣味でピアノを引き続けている方、いろいろな方がいろいろな曲をいろいろに演奏されます。
小さい子の演奏は聴いていていろんなことを思わせてくれますが、その日は子どもたちの弾く音があまりにきれいで、何人目か、たしか曲は「いつも何度でも」だったのですが、聴いていてじわっと涙が出そうなほどでした。私には(もう)あんな美しい音は出せない、と思いました。
ご存じの方も多いでしょうが、瀧廉太郎の「憾」は、ある意味で凄まじい曲です。技巧的に極端に難しいものではなく、弾ける人には簡単に弾けるはずの曲ですが、曲に内在している情感がただならぬもので、手遊びで弾いてもこの曲に成りはしません。この曲を弾いてこの曲に成るには、たぶんこの曲の情感にかなうだけの何かが演奏者の側にも要るかもしれない、と私は思っています。今回私が「憾」を弾こうと決めたのは、その意味でいまの自分にはこの曲が弾ける、いましか弾けない、と思ったからで、それだけ自分自身が凄まじいものを抱えていると(そのときは)自分自身思っていました。そのような私が、美しい音を奏でられるわけがない。いや、私が弾こうとしている曲が要求するような「美しい」音は、奏でるし、奏でられなかろうと奏でなければならないのですが、その「美しさ」はあの子どもたちが奏でている、あの美しさとはちがう。あれは、私がどう望んでも、この私からではもう出すことのできない、私がそこから遠く遠く離れてしまった美しさだ...そう感じました。
私の事情はともかく、ほんとうに美しい音を多くの子どもたちが奏でていました。その音のままで大きくなっていけるならぜひそうあってほしいと思いました。
しかし大人の方の演奏に、影のようにその美しさが添っているのも感じました。コンサートピアニストであれば「美しさ」は作り出すものであり、でなければ引き出すものであり、適切に制御して表出しなければならないものなのでしょうが、そうした作為が演奏に十分行き届かない、でも見るからに音楽が好きでならなさそうな方々のひたむきな、あるいは楽しげな演奏に、おそらくその方々の意図とはちょっと別に、それに寄り添うようにして、音楽の美しさが顔を出している、そんなような気がしました。
私自身の演奏は、弾ききれませんでした。単純に言って、フルコンサートのスタインウェイで今回の曲を奏でるだけの技量が私にはありませんでした。ただ、前のピアノリレーで知り合いになった方々から、最後の音についてポジティブな方向の感想をいただきました。率直にそれはありがたかったです。
楽屋では他の出演者の方々と演奏を聴きながら楽しく語らって(ほんとに楽しいひととき)、ボランティアの方々に竹田のお菓子を配ったりしました。家に帰り着いて風呂に入ったとき、これも自分で不思議だったのですが、泣けてきました。何も悲しくないし泣くほどうれしくもないのですが。ただ、ふだんから仕事も趣味もそれなりに力入れてやっているつもりなのですが(出来の半端さはともかく)、こんなにまで本気だった時間はずっとなかったような気がしました。そして、もう二度とないような。
そんなでした。
来年出られるかどうかはわかりません。弾きたい曲はあるので、できればまたエントリーしたいと思っています。ただ、毎年毎年、来年こそは聴く側に徹しよう、という思いもよぎります。軽〜く弾こうと思っていてもいつのまにか大変になっているので。
それでも、やっぱりのめり込んで来年も弾いているような予感がしています。ただ、今年のあの本気さになるのかどうかは、いまはまだわかりません。
ほんとうはいくつか印象に残った演奏のことを少し書きたいのですが、その演奏だけをことさらに取り上げるのがこのイベントにふさわしくない気がしています。それぞれの方の演奏に、それぞれの聴きごたえがあります。
今回参加された方々の演奏を、来年もぜひ聴きたいと思っています。
2003年10月26日(11月3日書き直し、11月24日再修正)