「花」(〜春のうらゝの隅田川)、「荒城の月」(〜春高楼の花の宴)、「お正月」(〜もういくつねるとお正月)などの広く親しまれている歌を作曲した瀧(滝)廉太郎(たき れんたろう:1879ー1903)(注1)は、ピアノ曲も作曲しています。
瀧は23歳で肺結核のため亡くなり、その後、彼の元にあった自筆楽譜などが処分されたり人手に渡ったりしたとみられています
(注2)。瀧が作曲したピアノ曲で現在確認されているものは「メヌエット」と「憾(一般に「うらみ」と読まれています)」の2曲だけです。
「メヌエット」は1900年(明治33年)に作曲されました。瀧がドイツへ音楽の勉強のため留学するその直前に作られた作品です。いっぽう、「憾」は留学先のドイツで病にかかり入院生活を送った後、日本に帰国した1902年(明治35年)の10月からその翌年1903年(明治36年)にかけて作曲が進められたようですが、その年の6月に瀧は亡くなります。
1929年(昭和4年)にこれら2曲と「荒磯の波」(「荒磯」と呼ばれることもあります)という歌曲が瀧の遺作として出版され、今日に伝えられています。
この記事でとりあげる「憾」は、瀧の絶筆とも言われている
(注3)、強い感情にあふれた作品です。「憾」は「心残り」「残念に思う」という意味で、瀧自身が書き記した題です。
「憾」は彼が遺した歌ほど有名ではありませんが、楽譜が現在も「メヌエット」とともに刊行されています(下にリストを載せています)。CD録音も数種類あり、インターネットでも演奏を視聴することができ、また映画の挿入音楽にも用いられたことがあって、それらなどを通してこの曲を知り、愛好するようになった方が多くいらっしゃるようです。
ところで、現在刊行されている「憾」の楽譜の多くは、昭和4年の遺作出版の譜面とおおむね同一の内容です
(注4)。いっぽう「憾」には、この昭和4年版の出版譜および現在刊行されている多くの楽譜と内容が異なる、瀧の自筆譜とみられる手稿譜(手書きの楽譜)が存在しています。あとのページで詳しく書きますが、この自筆譜と出版譜との間にはよくわからない「謎」があります。
私は以前「憾」を演奏する機会があり、その際に「憾」の出版譜と手稿譜との異同について調べ、それ以降、両者の関係について資料を用いて検討しています。またその中で出てきたいろいろな疑問点や問題点について考察を続けています。「メヌエット」にも瀧の自筆譜とみられる手稿譜が存在していて、その手稿譜も出版譜と内容が違うところがあり、それについても検討しています。
このコーナーでは、「憾」や「メヌエット」に関心をお持ちの方々にご参考になればと思い、またご意見をいただいて参考にさせていただきたいと思い、その検討と考察の内容を掲載していきます。
なお、慣例に従い、瀧廉太郎および各文献の著者につきましては敬称を略しております。
考察の筋を追うにはページ2から順にごらんください(ページ2からページ3へ行けます)。ページ5以降は個別のトピックとしても読んでいただけます。
ページ2 …「憾」1903年の手稿譜と現行の出版譜との相違点
ページ3 …「憾」1903年の手稿譜と初期出版譜との異同の分析(1)譜例考察
ページ4 …「憾」1903年の手稿譜と初期出版譜との異同の分析(2)異同パターンの考察
ページ5 …「メヌエット」手稿譜と出版譜との異同の分析
ページ6 …「憾」明治35年10月31日付の手稿譜について