遠い遠い夢の世界... 瀧廉太郎「憾」の自筆譜をめぐって
 
【最新情報・このコーナーについてのおぼえがき】
 
★★★ 【「憾」自筆譜に関しての最新情報】2019年に「憾」の自筆譜を含む瀧廉太郎の遺品が竹田市(大分県)に寄贈され、その後竹田市で「憾」自筆譜等に関する講演会、展示会等が開催され、調査報告書が刊行されました。今後、この自筆譜をもとにした調査・研究や演奏活動が盛んになってくるものと思われます。現在このコーナーに載せている内容は竹田市への「憾」自筆譜寄贈よりも前の時点で書いたもので、その後の動向は踏まえていません。お読みになられるにあたってはその点をご承知おきください。なお「憾」に関する最近・最新の動向については、私のブログ『或る草の音』にときどきですが書いています。2021年8月24日
 
★ このコーナーでは「憾」の自筆譜と出版譜との違いを中心に取り上げています。瀧廉太郎の生涯やエピソードについてはあまり書いていませんが(「都市伝説」についてはこの下の★をごらんください。「ドクタードクター」の話についてはページ6に書いています)、このページに「憾」についてのかんたんな解説とこのコーナーのねらいを書いています。このコーナーはときどき内容の追加や修正をしていますので、ネット上の最新版をご利用ください。
 
★ このごろ話題の「都市伝説」のお話に関連してちょっとだけ。【1】いろいろな伝記に書いてあることですが、瀧廉太郎が中心となって制作した『幼稚園唱歌』(「雪やこんこん」「鳩ぽっぽ」を含む)が出版されて初めて世に出たとき、瀧はすでにドイツに留学中でした。瀧は明治33(1900)年6月に文部省からドイツ留学の命を受け、翌年の明治34(1901)年4月に日本を発ってドイツへ向かい、『幼稚園唱歌』は瀧がドイツに滞在している明治34(1901)年7月に出版されました。このごろ話題になっているお話では「瀧の歌が子どもたちの人気を呼び、文部省がねたんで瀧をドイツへ…」と言われているようですが、時間の前後関係がまったく逆です。【2】瀧の書いた楽譜が焼かれて処分されたという話は瀧の妹さんの証言で伝わっていますが、妹さんの話ではそれを焼いたのは瀧のお母さんだということです。このページの最後にある注(2)に妹さんの証言を載せています。2015年6月30日筆(2016年2月11日少し書き直し)
 

2003年9月2日第1版作成開始 2017年5月29日新訂第1版掲載 2019年2月22日ページ2・文献リスト訂正
 
瀧廉太郎(滝廉太郎)

 

瀧廉太郎「憾」の自筆譜をめぐって

 「花」(〜春のうらゝの隅田川)、「荒城の月」(〜春高楼の花の宴)、「お正月」(〜もういくつねるとお正月)などの広く親しまれている歌を作曲した瀧(滝)廉太郎(たき れんたろう:1879ー1903)(注1)は、ピアノ曲も作曲しています。
 瀧は23歳で肺結核のため亡くなり、その後、彼の元にあった自筆楽譜などが処分されたり人手に渡ったりしたとみられています(注2)。瀧が作曲したピアノ曲で現在確認されているものは「メヌエット」と「憾(一般に「うらみ」と読まれています)」の2曲だけです。
 「メヌエット」は1900年(明治33年)に作曲されました。瀧がドイツへ音楽の勉強のため留学するその直前に作られた作品です。いっぽう、「憾」は留学先のドイツで病にかかり入院生活を送った後、日本に帰国した1902年(明治35年)の10月からその翌年1903年(明治36年)にかけて作曲が進められたようですが、その年の6月に瀧は亡くなります。
 1929年(昭和4年)にこれら2曲と「荒磯の波」(「荒磯」と呼ばれることもあります)という歌曲が瀧の遺作として出版され、今日に伝えられています。
 
 この記事でとりあげる「憾」は、瀧の絶筆とも言われている(注3)、強い感情にあふれた作品です。「憾」は「心残り」「残念に思う」という意味で、瀧自身が書き記した題です。
 「憾」は彼が遺した歌ほど有名ではありませんが、楽譜が現在も「メヌエット」とともに刊行されています(下にリストを載せています)。CD録音も数種類あり、インターネットでも演奏を視聴することができ、また映画の挿入音楽にも用いられたことがあって、それらなどを通してこの曲を知り、愛好するようになった方が多くいらっしゃるようです。
 
 ところで、現在刊行されている「憾」の楽譜の多くは、昭和4年の遺作出版の譜面とおおむね同一の内容です(注4)。いっぽう「憾」には、この昭和4年版の出版譜および現在刊行されている多くの楽譜と内容が異なる、瀧の自筆譜とみられる手稿譜(手書きの楽譜)が存在しています。あとのページで詳しく書きますが、この自筆譜と出版譜との間にはよくわからない「謎」があります。
 私は以前「憾」を演奏する機会があり、その際に「憾」の出版譜と手稿譜との異同について調べ、それ以降、両者の関係について資料を用いて検討しています。またその中で出てきたいろいろな疑問点や問題点について考察を続けています。「メヌエット」にも瀧の自筆譜とみられる手稿譜が存在していて、その手稿譜も出版譜と内容が違うところがあり、それについても検討しています。
 このコーナーでは、「憾」や「メヌエット」に関心をお持ちの方々にご参考になればと思い、またご意見をいただいて参考にさせていただきたいと思い、その検討と考察の内容を掲載していきます。
 
 なお、慣例に従い、瀧廉太郎および各文献の著者につきましては敬称を略しております。
 
 考察の筋を追うにはページ2から順にごらんください(ページ2からページ3へ行けます)。ページ5以降は個別のトピックとしても読んでいただけます。
ページ2 …「憾」1903年の手稿譜と現行の出版譜との相違点
ページ3 …「憾」1903年の手稿譜と初期出版譜との異同の分析(1)譜例考察
ページ4 …「憾」1903年の手稿譜と初期出版譜との異同の分析(2)異同パターンの考察
ページ5 …「メヌエット」手稿譜と出版譜との異同の分析
ページ6 …「憾」明治35年10月31日付の手稿譜について
 

「憾」「メヌエット」の現行出版譜リスト:

(2015年7月現在。譜面を実際に確認したものだけ載せています)

 

注:

(1) 瀧廉太郎の名前は「滝廉太郎」と標記されることが多いですが、この記事では「瀧」の字を使うことにします。
(2) 瀧の死後に瀧の母が作品を人にあげたり焼いたりしたらしいと、瀧の妹の安部トミさんが語っている話が、瀧の伝記で紹介されています:
「兄は胸が悪かったものでございますから、亡くなりました時、母が作曲したものを乞われるまゝに人にあげたり、大部焼いたらしうございます。それも私が庭で母がこちらへ歩いて来て居ります時、向うで何か燃えて居りましたので、そう想像するだけでございますけど、兄がこのように皆様方に惜しまれるとも思われず、兄もそう思わずに亡くなりましたものですから、母を恨むわけにもまいりません」(文献 小長久子(著)『滝廉太郎』 258ー259ページ)
(3) 多くのウェブページや書籍において「絶筆」という表現が用いられていますが、注(2)にも書いたとおり瀧の亡くなった直後に彼が書いた作品の自筆譜が処分された可能性があり、「憾」がほんとうに彼の最後の作品だったかどうかは疑問の余地があります。
(4) 後のページで書きますが現在の版は多少の修正がなされています。それでも自筆譜との食い違いは多数あります。なお、楽譜リストにあるミューズテック版は、瀧の自筆譜に基づいて独自に制作されています。制作時にこのコーナーの記事を参考にしていただきました。
 

このコーナーの最近の改訂:

2019年2月22日 ページ2と文献リストで、文献『瀧廉太郎 資料集』の刊行年を誤って書いていましたので、該当箇所を訂正しました。申し訳ございませんでした。
 
2018年10月1日 ページ6の「憾」明治35年10月31日付の手稿譜と1903年手稿譜との相違点に1項目追加しました。
 
2017年5月29日 新訂第1版を掲載しました。このページでは「瀧」の字体に関する話や「絶筆」かどうかの話など細かいところを削除したり少し手直ししたりしました。また、本コーナー全体の著作者表記を変更しました。なお、旧版をしばらくのあいだ次のURLに置いておきますが、リンクなどを張り直していません。ご覧になるときは参考までのご利用にとどめてください。http://www.geocities.jp/draumeverda/taki/prev/
 

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