★ このコーナーは2017年5月に改訂しました。今後もこまかな改訂をします。ネット上の最新版をご参照ください。

 
遠い遠い夢の世界... 瀧廉太郎「憾」の自筆譜をめぐって ページ3
2009年12月31日掲載 2017年5月29日新訂第1版掲載

 

瀧廉太郎「憾」の自筆譜をめぐって ページ3
「憾」1903年手稿譜と初期出版譜の異同の分析(1)譜例考察


 ページ1で書きましたように、「憾」には、現在出版されている多くの楽譜とは異なった内容を持つ手稿譜の存在が知られています。それは1903年(明治36年)2月14日付の手稿譜(このコーナーでは1903手稿譜と呼んでいます)で、現在そのコピーが公刊・公開されており、内容がおおやけに確認できる唯一の「憾」自筆譜です。
 ページ2ではその1903手稿譜と現在広く出回っている現行の出版譜の1つである全音ピアノピース版との相違点を挙げました。また全音ピアノピース版をはじめとした多くの現行譜とほぼ内容が同じで現行譜の「もと」になっていると見られる昭和4年(1929年)の出版譜(「憾」の最初の活版印刷です)において、作曲の日付として記載されている日付が1903手稿譜と同じ「明治36年2月14日」であることを確認しました。つまり、昭和4年の出版譜と1903手稿譜とは内容が明らかに異なっているのに、日付は同じなのです。
 
 現代の常識で言うなら、同じ曲の2つの楽譜があってそれぞれに内容が異なるのであれば、どちらの内容が「正当」か評価する必要が出てきます。もしどちらかが作曲者以外の人物によって編集されたものであるなら、作曲者自筆の楽譜のほうがまずは「正統」である(「正当」かどうか以前に)と見なされるでしょうし、後は音楽的にどちらの内容がより妥当かを見極めて「正当」さを評価していくことになるでしょう(楽譜の部分部分に対して判断するということになるかもしれません)。また、もしどちらの楽譜も作曲者の自筆であるなら、または自筆譜を正しく写したものであるなら、一般的には作曲者が時間的により後に書いた楽譜のほうがその作品の完成に近付いていて、そちらの内容のほうが「正当」だと評価されることになるでしょう。
 もし1903手稿譜が「憾」の最終稿・決定稿であるなら、それとは異なった内容である昭和4年の出版譜と、それを引き継いでいる現在の多くの「憾」出版譜は、瀧の意図した「憾」と異なったものを伝えていることになります。この場合、昭和4年出版譜やそれを引き継いでいる現在の多くの「憾」出版譜よりも1903手稿譜のほうが「憾」の正しい(望ましい)姿を表しているはずで、「憾」を演奏するにあたっても1903手稿譜(および1903手稿譜にあらためて準拠した楽譜)を使うことが望ましいと考えられます。
 逆に、1903手稿譜が最終稿でなく、これよりも後の原稿(それが完成原稿であるかどうかはともかく)が他に存在していて、それが昭和4年の出版に原本原稿として用いられたのであれば、1903手稿譜よりも現行の多くの出版譜を使うほうが「正当」だと考えられます。しかし、そもそも昭和4年の出版譜に1903手稿譜と同じ作曲日付が記載されている「謎」があるわけで、この「謎」がきちんと説明できないと昭和4年出版譜の記載内容自体もその信頼性、「正統」さが疑われます。ひいては現行の多くの出版譜の内容も信用できるのかどうかという問題になります。
 つまり、1903手稿譜と昭和4年出版譜との間の「謎」は、私たちがこれから「憾」を演奏し受け取っていく上で、解明する必要がある問題であると言えます。完全に解明することができるかどうかはなんともわかりませんが、このような「謎」がもたらされている理由がある程度でも理解あるいは推察できれば、「憾」に接し関わる人たちがそれぞれに判断をするための手がかりにはなるのではなかろうかと思います。ということで、ここからはその「謎」をどう理解することができるか、新たな楽譜を資料として加え、楽譜間の内容比較検討をしながら考えていきます。
 

「憾」の最初の公刊譜:『音樂』筆写譜

  「憾」1903手稿譜と出版譜との相違について論じている松本(1995)は、「憾」のもう1種類の楽譜について触れています(p.164; p.270)。それは、『音樂』(東京音楽学校学友会雑誌)第1巻第5号(明治43年(1910年)6月5日発行)の付録(文献リスト)です。この付録で瀧の遺した2つのピアノ曲、「メヌエット」と「憾」が初めて公刊されました(注1)。松本(1995, p.164)より「メヌエット」の公刊経緯に関する記述を引用します:
 この作品(筆者注:「メヌエット」のこと)が公刊されたのは、瀧没後の明治四十三年六月に東京音楽学校学友会雑誌『音樂』の付録として、「憾」とともに出版されたのが最初である。付録では、第三者の手による筆写譜がそのままの形で掲載されている。その後、昭和四年に若狹萬次郎(明治四十五年に東京音楽学校甲種師範科を卒業した音楽家・教育者)によって『瀧廉太郎氏遺作 日本風の主題によれる二つのピアノ獨奏曲』と題して共益商社書店から出版されている。今日一般的に知られている楽譜はこの時のもので、菊倍判による楽譜印刷はこれが本邦初であるという。

 この『音樂』付録に何か1903手稿譜と出版譜との間の「謎」を解く鍵がないかと思い、コピーを取り寄せました。それを見てみたところ、「メヌエット」と「憾」の2曲が、瀧の自筆譜とは明らかに異なる筆跡の筆写譜で掲載されていました。松本(1995)が指摘しているように、瀧ではない別人が書いたものと考えられます。楽譜には日付の記入があり、「メヌエット」は「明治三十三年十月一日作」、「憾」は「明治三十六年二月十四日作」となっています。「憾」の日付は、ページ2で検討してきた1903手稿譜、昭和4年出版譜の双方と共通しています(「メヌエット」の日付も手稿譜・出版譜と共通しています。後のページで触れます)。
 この『音樂』付録における「憾」の譜面の一部(冒頭:第1小節から第23小節)を図3-1に載せます。
 
★おことわり:本コーナーでは、小節番号は繰り返し部の1回目カッコ・2回目カッコを「個別に数え上げない」方式で数えています。第17小節の次にある繰り返し2回目カッコの小節は「第18小節」でなく「第17小節(2回目)」と表記し、その次の小節を「第18小節」としています。
 
図3-1
図3-1 『音樂』付録の「憾」筆写譜 冒頭部分
出典:『音樂』(東京音楽学校学友会雑誌)第1巻第5号
 
 この『音樂』付録の「憾」筆写譜(以下、『音樂』筆写譜とします)を見ると、いくつかの特徴が目立ちます。
 まず、強弱・発想記号などの指示が、アクセント記号以外まったく見られません。また、必要な加線・付点・符尾が欠けています(以下、図1中で明らかなもののみ。加線:第11小節左手、第22小節左手、付点:第10小節右手第1拍、第12小節右手第1拍、第22小節右手第1拍、符尾:第12小節左手、第20小節右手、第22小節右手)。また、各々の線が直線的で、おそらく定規を使用したと思われます(ちなみに1903手稿譜に書かれている線はフリーハンドのように見えます)。全体的な印象として、楽譜を書き慣れていない人が書写したもののように思われます。少なくとも、瀧本人が書いたものとは考えられません。きれいに仕上げようとはされているものの、端的に言ってミスの多い筆写であると言えるでしょう。
 

1903手稿譜・『音樂』筆写譜・昭和4年出版譜の譜例比較とそこから考えられること

 そして、この『音樂』筆写譜と、1903手稿譜、そして昭和4年出版譜の3点を対照すると、いくつかの点がたいへん興味深く思われます。譜例を挙げて見ていきます(1903手稿譜と昭和4年出版譜の譜例は『瀧廉太郎 資料集』の図版から引用します)。
 
 まず、第17小節(1回目)左手第3拍の和音です。譜例3-1に年代順に、1903手稿譜、『音樂』筆写譜、昭和4年出版譜のそれぞれ第16小節から第17小節(1回目)の部分を挙げます。昭和4年出版譜では当該の和音は{f-a-cis}、つまりcの音符に♯が付いています。これは多くの現行譜も同じです。この部分は演奏していて、また聴いていて少し独特の感じがある部分ですが(8分の6拍子は1小節内の3拍+3拍がリズム上の小さな単位で、この部分ではその初めの3拍の小単位内でcisが次の小単位の{e-a-cis}を先取りしていますが、この楽曲中の他の部分にはこのような小単位を越えての先取音がまったくありません)、1903手稿譜ではこの和音は{f-a-c}です({f-a-c}が3拍続いた後に{e-a-cis}が3拍と、すっきりした進行をしています)
  ここで『音樂』筆写譜の当該和音を見ると、昭和4年出版譜と同じ{f-a-cis}になっています。

1903手稿譜
 

『音樂』筆写譜
 

昭和4年出版譜
 
譜例3-1 「憾」第16−17小節(1回目)の各楽譜比較
 
 昭和4年出版譜(そして多くの現行譜)が1903手稿譜と異なる記述をしている(なのに日付が同じである)というのがページ2で提起した「謎」ですが、この箇所における昭和4年出版譜の記述は(1903手稿譜とは食い違っているいっぽうで)『音樂』筆写譜と同じです。
 この箇所を初めて見たとき、私は、昭和4年出版譜だけでなく『音樂』筆写譜も{f-a-cis}であるということは、何かこの箇所が{f-a-cis}と書かれているような楽譜が(過去に)存在していて、それを『音樂』筆写譜も昭和4年出版譜も参照したのではないか、という考えを持ちました。1903手稿譜では{f-a-c}であるこの和音を『音樂』筆写譜と昭和4年出版譜とがどちらも{f-a-cis}としているのは、たまたまとは考えづらく、『音樂』筆写譜と昭和4年出版譜が共通の先行楽譜を参照して作られ、その先行楽譜がこの和音を{f-a-cis}としていたと考えると納得ができます。ただそのように考える場合、『音樂』筆写譜にも昭和4年出版譜にも1903手稿譜と同じ日付が書かれていることをどう考えるか、という問題は残ります。『音樂』筆写譜までも同じ日付ということで、「謎」はむしろ深まります。
 ところが、次の譜例に示す箇所を見て、別の可能性が頭に浮かんできました。
 
 譜例3-2は第32小節および第34小節の右手第4拍から第6拍にかけてのリズムを取り上げたものです。昭和4年出版譜は(また現行譜の多くでも)音価が{付点4分-タイ-付点8分・16分・8分}、1903手稿譜は{付点4分-タイ-8分・8分・8分}となっています。この部分は昭和4年出版譜(および現行の多くの譜)では第33小節および第35小節{付点4分-タイ-付点8分・16分・8分}と音価がそろっていて、第32小節から第35小節までが同じリズムで続いていきますが、1903手稿譜はリズムが等しくないため、弾いていて、また聴いていて、すっと流れていかない独特の感じを与えます。
 ところでこの部分が『音樂』筆写譜では、1903手稿譜と同じ{付点4分-タイ-8分・8分・8分}となっています。つまり、この箇所の右手リズムに関しては、1903手稿譜と『音樂』筆写譜とが同じで、『音樂』筆写譜と昭和4年出版譜とは食い違っています。
 
1903手稿譜
 

『音樂』筆写譜
 

昭和4年出版譜
 
譜例3-2 「憾」第32−35小節の各楽譜比較
 
 この箇所に関しては、『音樂』筆写譜は1903手稿譜の記述を「そのまま受け継いでいる」ように見えます。昭和4年出版譜の記述のほうを見慣れている現代の目から見ると、この箇所に関するかぎり『音樂』筆写譜は昭和4年出版譜より「正確に」1903手稿譜を踏襲しているとも言えそうです。この箇所における1903手稿譜と『音樂』筆写譜の内容一致はやはりたまたまとは考えづらく、『音樂』筆写譜が参照した楽譜はこの箇所に関して1903手稿譜と同内容であった、ということになろうかと思います。
 では、譜例3-1に示した箇所で1903手稿譜と異なり、譜例3-2の箇所では1903手稿譜と同じであるような何らかの先行楽譜が存在した、ということになるのでしょうか。そこまで考えたとき、私は『音樂』筆写譜の筆写の粗さが気になりました。上に述べたように『音樂』筆写譜には楽譜として必要なパーツの書き落としが少なからず見られ、もし何かを写したものだとするとその精度はあまり高くないのではないかと思われます。ひょっとして、譜例3-1の{f-a-cis}は、書き写し間違いなのではないでしょうか。1903手稿譜でこの和音の次の第4拍に書かれている和音{e-a-cis}のシャープ記号を、もし1拍前の音符に付けてしまったなら、この{f-a-cis}という和音が出来上がります。
 いっぽう、譜例3-2の箇所における『音樂』筆写譜と1903手稿譜との一致は、上に書いたようにたまたま一致したとは考えづらく、むしろ1903手稿譜(もしくはそれと同内容の何らかの楽譜)を正しく写し取ったと考えるのが自然です。とすると、『音樂』筆写譜は何か未知の内容の楽譜を写し取ったというより、1903手稿譜を写し取ったのではないでしょうか。そして、その書写の際に譜例3-1の箇所で写し間違いをしたのではないでしょうか。そのように考えるなら、『音樂』筆写譜に書かれている日付が1903手稿譜の日付と同じであることも当然ということになります。つまり、『音樂』筆写譜は1903手稿譜を写そうとし、日付の部分や譜例3-2の部分では1903手稿譜のとおりに写した(写すことができた)ものの、譜例3-1の箇所では間違えてしまったのではないか、ということです。
 
 では、昭和4年出版譜についてはどう考えられるでしょうか。もし譜例3-1に見られる和音{f-a-cis}が『音樂』筆写譜作成時の間違いによって発生した和音であるなら、その{f-a-cis}を書いている昭和4年出版譜は、この『音樂』筆写譜を写して作られたと考えるのが最も無理がないと思われます。譜例3-2の部分では昭和4年出版譜は『音樂』筆写譜とも1903手稿譜とも違う記述をしていますが、これは上の、『音樂』筆写譜が1903手稿譜を写す際に書き間違えたという考え方になぞらえて言えば、昭和4年出版譜が『音樂』筆写譜を写そうとしたけれども書き間違えてしまい、このようなリズムになった、という可能性を考えることができそうです。
 もっとも、昭和4年出版譜が『音樂』筆写譜を写そうとしたけれども「書き間違え」てしまった、とはかぎらないかもしれません。上に述べたように譜例3-2の箇所は、1903手稿譜に従って演奏するとすっと流れていかない独特のリズム感(むしろフレーズ感でしょうか)があります。昭和4年出版譜の編集者はここに違和感を感じて、独自にリズムを「書き換えた」(前後の小節に合わせてリズムをそろえた)、ということも考えられそうです。編集者がここの箇所を『音樂』筆写譜の書き間違いと考えて、原曲の譜面を推測してこのように書き換えた、あるいは、そこまで考えずに自身の音楽的判断で書き換えた、といったことが行われたのではないでしょうか。
 いずれにしても、譜例3-2の箇所は昭和4年出版譜が『音樂』筆写譜を参考にして作成される際に書き変わった、改変されたと考えることで説明がつきます。譜例3-1の箇所のことと合わせて考えると、これらの箇所の楽譜間の異同は、『音樂』筆写譜が1903手稿譜を参照して作られ、昭和4年出版譜は『音樂』筆写譜を参照して作られ、そのそれぞれの楽譜が作成される際に何らかの事情で(書き間違いや編集者の判断などで)音楽内容が部分的に改変を受けた、その結果なのではないかと考えることができそうです。
 
 こうした楽譜の内容異同点をもう少し見ていきます。1903手稿譜では第58小節の右手第1拍・左手第4拍から第60小節の右手左手第1拍にかけて8va記号がかかっていますが、『音樂』筆写譜と昭和4年出版譜にはそれがありません(譜例3-3)(なお、この部分は現行譜では1903手稿譜と同じく8va記号がかかっていますが、そのようになったのは比較的最近のことで、長くこの部分は8va記号のない版が出回っていました。この点については後で考えます)

1903手稿譜
 

『音樂』筆写譜
 

昭和4年出版譜
 
譜例3-3 「憾」第54−60小節の各楽譜比較
 
 また、第14小節から第16小節の右手に、昭和4年出版譜(および現行譜)では8va記号がかかっていますが、1903手稿譜と『音樂』筆写譜はどちらもこの8va記号がありません(譜例3-4)。

1903手稿譜
 

『音樂』筆写譜
 

昭和4年出版譜
 
譜例3-4 「憾」第14−16小節の各楽譜比較
 

 譜例3-1の左手和音の違いからは昭和4年出版譜が(1903手稿譜ではなく)『音樂』筆写譜を見て作成されたのではないかということが想像されました。譜例3-3の8va記号の有無も、そのように考えると理解できます。『音樂』筆写譜が1903手稿譜を写し取る際に8va記号を書き落としてしまい、昭和4年出版譜の編集者は8va記号が欠落した『音樂』筆写譜をこの箇所に関しては(欠落があるとは気付かず)そのまま写し取ったということではないでしょうか。
 いっぽう譜例3-2の右手リズムの違いからは、昭和4年出版譜がもし『音樂』筆写譜を見て作成されたのだとしてもすべてが『音樂』筆写譜に従っているわけではないということがうかがわれましたが、譜例3-4の8va記号もそうした昭和4年出版譜の「独自性」を想定すると理解ができます。実際、この部分の8va記号に関しては、1903手稿譜・『音樂』筆写譜よりも昭和4年出版譜のほうが「妥当」であるように思えます。この部分は再現部の相当箇所(第51小節から)では『音樂』筆写譜(および1903手稿譜)に8va記号が見られますが、メロディーの流れとしてはこの8va指示のあるほうが自然に思えます。昭和4年出版譜の編集者は、この再現部に基づいて、提示部のほうにも8va記号があるはずだと(あるべきだと)推察し、8vaを書き加えたのではないでしょうか。8vaが何らかの偶然で付け加わるということはたいへん考えにくく、私は、昭和4年出版譜の編集者が『音樂』筆写譜を吟味し、自身の音楽的見識でもってここに8va記号を入れた、と考えるのが最も理解しやすいと思います。それ以外に、昭和4年出版譜の編集の際にここに8va記号が書かれている未知の楽譜が参考にされた(単独で、もしくは1903手稿譜とともに)という可能性も考えられますが、そうであったとすると今度は譜例3-1と譜例3-3の箇所の説明がたいへん困難になります。
 
 これらのことは総合的に見て、『音樂』筆写譜が1903手稿譜を元に作成され、昭和4年出版譜は『音樂』筆写譜を元に作成された、という可能性を示唆しているように思われます。そして、『音樂』筆写譜も昭和4年出版譜もその作成の際に、意図的なのか間違いなのかはともかく、元の楽譜の完全なコピーでなくその楽譜独自の内容が形成された(形成されてしまった)ということが想像されます。
 この一連の過程において、『音樂』筆写譜が1903手稿譜と違っている箇所では、基本的に『音樂』筆写譜の記述が昭和4年出版譜に「受け継がれ」ただろうと考えられます。譜例3-1に見られる和音の違いや譜例3-3における8va記号の有無はそのようなものと考えられます。昭和4年出版譜の編集者が1903手稿譜を見ずに(見ることができずに)『音樂』筆写譜の記述だけを見てそれを元に昭和4年出版譜を作成したため、1903手稿譜と異なってしまっている『音樂』筆写譜の記述がそのまま「受け継がれ」たのであろうということです。
 
 仮にもし昭和4年出版譜の編集時に1903手稿譜「だけ」が編集者の手元にあり、それだけを見て楽譜を編集作成したのであれば、すでに述べたように、譜例3-1や譜例3-3のような現象は、偶然に起きるか、何か音楽的な裏付けがあってそのように変更される事情があってそうしたか、ということになります。偶然に起きるのであればその数は少ないでしょうし、理論的背景に基づく変更であればその変更の個々の理由が音楽的に納得できるのではないかと思われます(譜例3-1の箇所は偶然の一致とも音楽的な変更とも考えづらいものでした)。またもし昭和4年出版譜の編集時に1903手稿譜と『音樂』筆写譜の両方が編集者の手元にあったのであれば、ふつうに考えれば(少なくとも現代の常識からすれば)1903手稿譜の記述が優先されるでしょうし、そうであれば、1903手稿譜と『音樂』筆写譜の記述が食い違っている時には1903手稿譜の記述のほうがより多く採用されることになるでしょう。
 そう考えると、1903手稿譜・『音樂』筆写譜・昭和4年出版譜の3つの楽譜の相違をすべて取り上げて比較検討し、その相違の様子を見ていけば、昭和4年出版譜が先行する2つの楽譜を参照したのかしなかったのか、ある程度推察することができるのではないかと考えられます。そこで、3楽譜の異同についてすべての箇所を取り上げてみることにしました。
 

ページ4に続きます)

 
ページ1へ  ページ2へ  ページ4へ 

注:
(1) この検討は、『音樂』第1巻第5号付録のコピーを入手して行いました。そのため、今回の検討では、付録以外の部分(当該巻の本体など)は参照していません。また、コピーの原本に書き込みがあって印刷内容と判別がつかないといった可能性もゼロではありません。機会を得て現物に当たりたいと考えています。 

このページの改訂履歴:
2017年5月29日.  新訂第1版を掲載しました。旧版からの変更としては、冒頭にこの考察をする意義を書き足し、また各楽譜の譜例比較に考察を書き足し、さらに微細な変更をしました。

筆者より:
...もしこのページの記載事項に誤った点があるようでしたら、ぜひお知らせくださいますようお願い申し上げます。情報・ご意見もいただければと思います。
いろいろ行き届いていない点が多々あるかと思います。素人仕事ですが、少しずつ検討とページ改良を進めていきますので、よろしくお願い申し上げます。

瀧廉太郎「憾」の自筆譜をめぐって ページ1へ
 
遠い遠い夢の世界... トップページへ

(c) 光安輝高(さんちろく), 2003−2017.