★ このコーナーは2017年5月に改訂しました。今後もこまかな改訂をします。ネット上の最新版をご参照ください。

 
遠い遠い夢の世界... 瀧廉太郎「憾」の自筆譜をめぐって ページ4
2009年12月31日掲載 2017年5月29日新訂第1版掲載

 

瀧廉太郎「憾」の自筆譜をめぐって ページ4
「憾」1903年手稿譜と初期出版譜の異同の分析(2)異同パターンの考察


 ページ1で書きましたように、「憾」には、現在出版されている多くの楽譜とは異なった内容を持つ手稿譜の存在が知られています。それは1903(明治36)年2月14日付の手稿譜(このコーナーでは1903手稿譜と呼んでいます)で、現在そのコピーが公刊・公開されており、内容がおおやけに確認できる唯一の「憾」自筆譜です。
 ページ2ではその1903手稿譜と現在広く出回っている現行の出版譜(全音ピアノピース版)との相違点を挙げました。またその現行譜とほぼ内容が同じで現行譜の「もと」になっていると見られる昭和4年(1929年)の出版譜において、作曲の日付として記載されている日付が1903手稿譜と同じ「明治36年2月14日」であることを確認しました。つまり、昭和4年の出版譜と1903手稿譜とは内容が明らかに異なっているのに、日付は同じなのです。
 その「謎」をどう理解することができるか、ページ3では「憾」(と「メヌエット」)が初めて世に出た『音樂』(東京音楽学校学友会雑誌)付録の筆写譜を資料として加え、譜例を挙げて楽譜間の内容比較検討をしました。このページ4では、1903手稿譜、『音樂』筆写譜、昭和4年出版譜の間の異同点を総ざらいして、これらの楽譜間の関係を検討します。ページ3を別ウィンドウや別タブでご覧になりながらお読みくださることをお勧めします。
 

異同の総覧と異同パターン

 表4-1は、「憾」の1903手稿譜、『音樂』筆写譜、そして昭和4年出版譜(これら3楽譜の基本情報についてはページ2ページ3を参照してください)の間で、少なくともいずれか2楽譜の間で食い違いが起きている箇所をすべて取り上げて比較し(ただし表下の注をご参照ください)、そこで見られる食い違いのパターンを整理した結果を示したものです。
 食い違いパターンに関しては、記号の有無(臨時記号・強弱記号等)は○×で、何かの要素に関する質・量的な違い(音高・強弱の違い等)はアルファベット(ABC)で示しています。
 また便宜のために、現行の出版譜の1つである全音ピアノピースNO.402と1903手稿譜とが食い違っている箇所について、小節番号の項目に*印を入れてあります(ページ2で1903手稿譜と全音ピアノピース版を比較した結果と同じです)。全音ピアノピース版のほうが妥当だと思われる箇所は(*)としてあります。
 
★おことわり:本コーナーでは、小節番号は繰り返し部の1回目カッコ・2回目カッコを「個別に数え上げない」方式で数えています。第17小節の次にある繰り返し2回目カッコの小節は「第18小節」でなく「第17小節(2回目)」と表記し、その次の小節を「第18小節」としています。
 
表4-1 「憾」1903手稿譜−『音樂』筆写譜−昭和4年出版譜間の相違
小節 事項(手・拍・音など) 1903手稿譜 『音樂』筆写譜 昭和4年出版譜 パターン
1 * 強弱 f なし mf A—B—C
7 * クレシェンド松葉 なし なし あり ×—×−○
8 * デクレシェンド松葉 なし なし あり ×—×−○
8 * 右手和音の音価 付点4分タイ4分 付点4分タイ4分 付点4分タイ付点4分 A—A—B
8 * 右手第6拍の8分休符 あり なし なし ○−×—×
10 左手第3拍和音中のg音 あり なし あり ○−×—○
12 左手第2拍からの和音の
cに対する♯
あり なし あり ○−×—○
13 * クレシェンド松葉 なし なし あり ×—×−○
14−16 (*) 右手8va なし(書き忘れ?) なし あり ×—×−○
15−16 * デクレシェンド松葉 あり なし なし ○−×—×
17
(1回目) *
左手第3拍・第4拍和音の
最高音(それぞれ)
c・cis cis・cis cis・cis A−B−B
17
(1回目・
2回目) *
rit. あり なし なし ○—×—×
18 * 強弱・発想 p legato なし なし ○—×—×
22 * 強弱 mf なし なし ○—×—×
26 * 強弱 p なし なし ○—×—×
29 左手第6拍和音のbに対する
ナチュラル
あり なし あり ○—×—○
30 * 強弱 mf なし なし ○—×—×
30 * クレシェンド松葉 なし なし あり ×—×−○
32 * 強弱 f なし なし ○—×—×
32 * 右手音価 付点4分タイ8分・
8分・8分
付点4分タイ8分・
8分・8分
付点4分タイ付点8分・
16分・8分
A—A—B
33−34 * "von hier wenig eilig"の記述 あり なし なし ○—×—×
34 * 右手音価 付点4分タイ8分・
8分・8分
付点4分タイ8分・
8分・8分
付点4分タイ付点8分・
16分・8分
A—A—B
36 右手アクセント あり なし あり ○—×—○
36 * rit. あり なし なし ○—×—×
37 (*) アルペジョ低音段最高音 c(cisの誤り?) c cis A—A—B
37 * アルペジョ運指
(低いほうから)
5121244213 5121244213 L513212R1235 A—A—B
37 * ペダル記号 なし なし あり ×—×−○
38 * テンポ・強弱・発想 Tempo I
f marcato
なし なし ○—×—×
44 * クレシェンド松葉 なし なし あり ×—×−○
45 * デクレシェンド松葉 なし なし あり ×—×−○
45 * 右手・左手第1拍アクセント あり なし なし ○—×—×
46 * 強弱 mf なし なし ○—×—×
49 (*) 左手第2拍からの和音の
cに対する♯
なし
( 書き忘れ?
コピーに写っていない?)
なし あり ×—×−○
50 * クレシェンド松葉 なし なし あり ×—×−○
52−55 * decrescendo あり なし なし ○−×—×
56 * テンポ・強弱 ff Presto なし なし ○−×—×
57−59 右手・左手8va あり なし なし ○−×—×
60−64 * ペダル記号 なし なし あり ×—×−○
63 * 右手和音中のf音 あり なし なし ○−×—×

表4-1の注:
・『音樂』筆写譜には必要な符点・符尾(旗)・加線が欠けている箇所が多くあります。これらのうちほとんどは1903手稿譜と昭和4年出版譜では正常に書かれてあり、パターンとしては○−×−○パターン(このページの後半で言う「復活」パターン)を示していますが、それらについては表に載せませんでした(もし『音樂』筆写譜のみを読んで新規楽譜を編集するとしても、これらの誤りはすぐに誤りだとわかり、容易に修正されると考えられます)。しかし第8小節については1903手稿譜と昭和4年出版譜とで記述が異なっていて、これは表に取り上げてあります。
・1903手稿譜には他の楽譜の譜面上には見られない様々な書き込みが見られます。それらは五線から多少離れた位置に書かれていて、中には「♯」記号に見えるものなど音楽内容に関連する可能性がありそうなものもありますが、この表では取り上げていません。いつかあらためて考察したいと考えています。
 
 表4-1の右端の欄は、各楽譜の異同をパターンとして書いたものです。たとえば、○−×−×は「1903手稿譜にはこの指示が書かれているが『音樂』筆写譜にはなく、昭和4年出版譜にもない」ことを意味します。A−A−Bは「1903手稿譜と『音樂』筆写譜は同じ指示で、昭和4年出版譜はそれとは違う指示である」ことを意味します。A−B−Cは「1903手稿譜と『音樂』筆写譜と昭和4年出版譜ではそれぞれに指示が違う」ことを意味します。
 考えられる異同パターンと、表4-1から数え上げた各パターンの件数を下の表4-2に示します。
 

表4-2 「憾」1903手稿譜−『音樂』筆写譜−昭和4年出版譜間における異同パターンの件数
パターン 件数
○−×−×17
○−○−×0
○−×−○4
×−○−○0
×−×−○11
×−○−×0
A−B−B1
A−A−B5
A−B−A0
A−B−C1

 
 表4-2を見ると、記号の有無(○×)に関しては○−×−×が突出して多く、×−×−○がそれに次ぎ、○−×−○がいくらか見られます。質・量的な違い(AB)に関してはA−A−Bが多く、A−B−BとA−B−Cが1件ずつだけですが次に並んでいます。
 ○−×−×は上に書いたように「1903手稿譜にはこの指示が書かれているが『音樂』筆写譜にはなく、昭和4年出版譜にもない」、×−×−○は「1903手稿譜にはこの指示がなく『音樂』筆写譜にもないが、昭和4年出版譜には書かれている」、○−×−○は「1903手稿譜にはこの指示が書かれているが『音樂』筆写譜にはなく、しかし昭和4年出版譜には書かれている」の意味です。質・量的な違いは、A−A−B「1903手稿譜と『音樂』筆写譜は同じ指示で、昭和4年出版譜はそれとは違う指示である」、A−B−B「1903手稿譜と『音樂』筆写譜は指示が異なり、昭和4年出版譜は『音樂』筆写譜と同じ指示である」、A−B−C「1903手稿譜と『音樂』筆写譜と昭和4年出版譜ではそれぞれに指示が違う」の意味です。こうしたパターンの意味を踏まえて表4-2の結果を概観すると、次のように言えます。
 
(1)1903手稿譜に見られる特徴で『音樂』筆写譜で見られないというものが多数あり、その多くが昭和4年出版譜でも見られない(○−×−×:17件)。ただし昭和4年出版譜で見られるケースも若干ある(○−×−○:4件)。
(2)1903手稿譜にも『音樂』筆写譜にも見られない特徴で昭和4年出版譜で見られるものが多くある(×−×−○:11件)。
(3)1903手稿譜と『音樂』筆写譜が共通した指示をしていて、昭和4年出版譜で指示が異なるというケースがいくらかある(A−A−B:5件)。
(4)1903手稿譜と違う指示が『音樂』筆写譜に書かれていて、その『音樂』筆写譜と同じ指示が昭和4年出版譜でも見られるケースがある(A−B−B:1件)。
(5)1903手稿譜・『音樂』筆写譜・昭和4年出版譜ですべて指示が食い違っているケースがある(A−B−C:1件)。
 

異同パターンの件数が意味すること

 ページ3では譜例を検討して、『音樂』筆写譜が昭和4年出版譜の元になっているのではないか、また、1903手稿譜が(あるいはそれと同内容の別の譜面が)『音樂』筆写譜の元になっているのではないか、という可能性を考えました。ここであらためてページ3の譜例を振り返りながら、各種パターンの件数とその意味することを考えてみます。
 譜例3-1に取り上げた第17小節(1回目)左手第3拍の和音は、パターンA−B−Bに当たります。このパターンは上の(3)で述べたように1例だけですが、すでに述べたようにこのケースは、3楽譜の中で最後に編集された昭和4年出版譜が、1903手稿譜ではなく『音樂』筆写譜を見て作られた可能性を示唆するものです。ところで、記号の有無のほうで昭和4年出版譜が(1903手稿譜でなく)『音樂』筆写譜を見て作られたという可能性を窺わせるのはパターン○−×−×です。これは1903手稿譜にある指示が『音樂』筆写譜と昭和4年出版譜にないパターンで、譜例3-3の第58小節から第60小節にかけての8va記号はこのパターンに相当します。このパターン○−×−×は、上の(1)に示したように、17件にのぼっています。この件数は他のパターンと比べて突出して多いです。パターンA−B−Bのことをあわせて考えると、昭和4年出版譜が(1903手稿譜でなく)『音樂』筆写譜を見て作られたという可能性が強く示唆されます。
 ただ、パターン×−○−○が見られればそれも同じ可能性を示唆するはずですが、このパターンはまったくありません。また、昭和4年出版譜が『音樂』筆写譜ではなく1903手稿譜と共通している○−×−○も少ないながら存在しています。これらの点については後で検討してみます。
 
 次に、譜例3-2の第32小節および第34小節の右手リズムですが、1903手稿譜と『音樂』筆写譜が共通した指示をしていて、昭和4年出版譜で指示が異なる、パターンA−A−Bに当たります。このパターンA−A−Bは5件見られ(第32小節・第34小節をそれぞれ1件として数え上げています)、質・量の違いとしては最も多いパターンです。記号の有無パターンではこれに相当するものは○−○−×と×−×−○がありますが、○−○−×は0件であるのに対して×−×−○は11件を数えていて、特徴的な傾向を示しています。パターン×−×−○には譜例3-4の第14小節から第16小節の右手8vaが相当します。
 この記号有無パターンの件数は、1903手稿譜と『音樂』筆写譜がどちらも書いている記号は昭和4年出版譜でも同じように書いてあり、1903手稿譜と『音樂』筆写譜がどちらも書いていないような記号を昭和4年出版譜が11個書いているということを意味します。パターンA−A−Bをあわせて考えると、これらのことは、1903手稿譜と『音樂』筆写譜との基本的な共通性もさることながら、それら2つの楽譜の共通部分を昭和4年出版譜が「踏まえている」こと、そしてその上で昭和4年出版譜が独自の「追加」を多く行っていることを、強く示唆しているように思われます。
 
 この昭和4年出版譜における多数の「追加」は、昭和4年出版譜が『音樂』筆写譜のみを直接参照したのだと考えると、納得しやすいです。すでに述べたように、『音樂』筆写譜には強弱・発想記号などの指示が(アクセント記号以外)まったく見られず、楽譜の「約束」として書く必要がある事項までもが多数欠けています。昭和4年出版譜の編集者がもしこの『音樂』筆写譜のみを参照して出版譜を世に出そうとしたのであれば、編集方針として、たとえば強弱は自身の判断で補う、ということにした可能性も十分考えられると思います。その場合、その編集はやはり『音樂』筆写譜に「欠けている」ものを「追加」するという方向性が強くなることになるでしょう。
 このことは、パターン間の数の比較からもうかがうことができます。『音樂』筆写譜に「記載されている」事項が昭和4年出版譜に「記載されていない」というパターンが○−○−×と×−○−×の2種類ありますが、このどちらのパターンも件数は0です。つまり昭和4年出版譜は、『音樂』筆写譜に「書かれている」事項はすべて記載している、ということになります。
 ただ、A−A−BやA−B−Cパターンは見られるので、昭和4年出版譜が『音樂』筆写譜と質・量的に違っている箇所はある、ということは言えます。これらのパターンを示している箇所を読んでみると、昭和4年出版譜の編集者が独自判断を取り入れた(あるいは参照した楽譜を読み違えた)箇所であるように見えます。A−B−Cパターンは曲冒頭の強弱の変更(『音樂』筆写譜に対しては「追加」した形になる)、A−A−Bは音価の変更(第8・32・34小節)・アルペジョ運指の書き換え(第37小節)・そして和音における間違いの訂正(第37小節)であるように見えます。
 これらの箇所における昭和4年出版譜と先行2楽譜との相違は、編集者の判断なのか手違いなのか、また音楽的に妥当かどうかといった問題があると思いますが、第37小節アルペジョ最高音のシャープ加筆や第14小節から第16小節右手の8va記号の補充を見ると、(何かそのように書かれた未知の楽譜を参考にしたのでないかぎり)編集者が正統的な音楽的判断ができる人物であったことは間違いないと思います。こうした編集者であれば、自身の音楽的判断で多数の「追加」を行うことも十分ありえることだと思います。昭和4年出版譜には「若狹萬次郎編」と記載されていますが、若狹萬次郎は戦前の音楽教科書編集や各地の校歌の作曲などに活躍していた人物で(ウェブ検索で調べてわかる範囲の話ですが)、実際に若狹萬次郎が編集したのであれば上のことは十分理解できます。
 
 さきほど、パターン×−○−○がまったく見られない事実を指摘しましたが、×−○−×のパターンも件数がまったくありません。これらのことは、1903手稿譜に書かれていない指示を『音樂』筆写譜が新しく書いているということは「ない」ということを意味します。すでに述べてきたように、『音樂』筆写譜は1903手稿譜に比べると多くの指示が「欠けている」ように見えますが、いっぽうで1903手稿譜に対して「追加」したものはない、ということになります。そうすると、『音樂』筆写譜は1903手稿譜をできるだけ正確に写し取ろうとしたのではないか、ただ何らかの理由で(意図があってのことかミスなのか)強弱や発想に関する指示を落とし、それ以外の点でも書き損じを発生させてしまい、結果として1903手稿譜との食い違いを多数生じた楽譜が作られたということなのではないか、と想像されてきます。
 
 これらの結果を大きく見るなら、まず、昭和4年出版譜が『音樂』筆写譜のみを直接参照し、それに独自の追加を多数おこない、一部を改変した、と考えることで、多くのパターンに対してほぼ説明がつきそうに思われます。また、『音樂』筆写譜は1903手稿譜に書かれている強弱など多くの指示が欠けていますが、昭和4年出版譜よりも1903手稿譜に「忠実」に見える点が少なからずあり、それらの点は『音樂』筆写譜が1903手稿譜を写し取ったのだと考えると理解できます。
 それらをあらためて総合して見ると、『音樂』筆写譜は1903手稿譜を参照して作られ、昭和4年出版譜はその『音樂』筆写譜(のみ)を参照して作られた、と考えることで、3つの楽譜の間の齟齬が全体として整合的に理解できるように思われます。つまり、1903手稿譜の内容が一部誤って・あるいは改変されて『音樂』筆写譜に引き継がれ、『音樂』筆写譜の内容がその誤りや改変を残したままさらに一部誤って・あるいは改変されて昭和4年出版譜に引き継がれ、それが現代の「憾」出版譜に至っている、ということです。
 
 このことは、1903手稿譜を元にして『音樂』筆写譜が成立し、その『音樂』筆写譜を元にして昭和4年出版譜が成立したと考えられる、ということを意味します。言い換えれば、『音樂』筆写譜は1903手稿譜を底本とし、昭和4年出版譜は『音樂』筆写譜を底本としたと考えられるということです。ということは、昭和4年出版譜、そして現行譜の「おおもと」は、結局1903手稿譜そのものであったのではないでしょうか。
 そう考えるなら、1903手稿譜と昭和4年出版譜との間の内容の齟齬と日付の同一という「謎」は解消されます。1903手稿譜が元であるので日付はすべての譜面で同一であるのですが、音楽内容が途中で書き換わってしまったので、結果として1903手稿譜と昭和4年出版譜とは日付が同じなのに内容が異なってしまった、ということです。
 ひとまず、この考え方を「継承説」と呼んでおくことにします。
 
 この継承のプロセスをかいつまんで書くと、
(1)『音樂』筆写譜は1903手稿譜を写譜したが、そのときに強弱などの指示を書き落としてしまい(何か意図があったのかは不明)、またミスによって、第17小節(1回目)左手第3拍の和音が{f-a-cis}になり(つまり♯を1拍前の音符に付けてしまった)、第58小節から第60小節にかけての8va記号が欠落してしまった。
(2)次いで、その『音樂』筆写譜を元に昭和4年出版譜が作られたが、そのときの編集作業で、強弱の指示などが(おそらく編集者によって)追加され、また第32小節・第34小節の右手リズムが改変を受けた。そして、『音樂』筆写譜作成の時に欠落・改変された点のうち、編集者が欠落・改変と見抜けなかったものがそのまま残されて、結果、昭和4年出版譜が出来上がった。
ということになろうかと思います。
 
 もし事実がこういう経緯であったとすると、昭和4年出版譜、そして現行の楽譜の起源は、1903手稿譜であることになります。しかも、見てきた各楽譜のうちで瀧が手を入れたのはその1903手稿譜が最後であるわけですから(『音樂』の刊行時には瀧は亡くなっていましたので)、1903手稿譜よりも後の手稿譜が確認されていない現時点にあって、最も「正統」である楽譜は1903手稿譜であることになります(注1)。現行の楽譜はその1903手稿譜をいわば歪んだ形で伝えてしまっていることになります。
 

「復活」パターンの問題を考える

 ただ、もしそのように考えるとすると、1つ問題が残ります。それはパターン○−×−○が若干見られるということです。このパターンは、1903手稿譜に書かれていて『音樂』筆写譜に見られない指示が、昭和4年出版譜には書かれていることを意味します。ここでは1903手稿譜の指示が言わば「復活」「先祖帰り」した形になっています。もし昭和4年出版譜が『音樂』筆写譜のみを参照して作られたなら、そのときに見ていないはずの1903手稿譜に書かれている(『音樂』筆写譜には書かれていない)指示がなぜ書かれているのか、疑問が浮かびます。『音樂』筆写譜が1903手稿譜を参照して作られ、昭和4年出版譜はその『音樂』筆写譜(のみ)を参照して作られた、と考えるなら、なぜこのようなパターンが出現するのかが別途説明できなければなりませんし、説明ができないのであればもっと別の可能性を考えてみる必要が出てきます。
 
 ここで、パターン○−×−○に相当する箇所の楽譜間異同を書き出してみます。
(1)第10小節左手第3拍において、『音樂』筆写譜では1903手稿譜に見られるg音が欠落しているが、昭和4年出版譜では「復活」している。
(2)第12小節左手第2拍において、和音中のcに対する♯が『音樂』筆写譜のみ欠落している。
(3)第29小節左手第6拍において、bに対するナチュラルが『音樂』筆写譜のみ欠落している。
(4)第36小節において、1903手稿譜では右手和音にアクセント記号があるが、『音樂』筆写譜ではアクセント記号がない。しかし昭和4年出版譜ではアクセント記号がある。
 
 このうち、第10小節・第12小節・第29小節に関しては、ある程度音楽に親しんでいる編集者なら、1903手稿譜を知らなくともこのように「改変」する(結果として「復活」させることになる)であろうと私には思われます。これらの箇所における1903手稿譜の記述の「復活」は、1903手稿譜を見てそうしたと考えるのでなくとも、昭和4年出版譜の編集者が音楽上の妥当さを吟味した結果そのように校訂したと考えることで十分理解できると思います。
 ただ、第36小節のアクセント記号に関しては、音楽に長けている人であればこれが欠落していても必ず補充する、とまでは言えないように私には思えます。左手の音にはアクセント記号があり、流れからして右手和音にもアクセントがあることが自然ではありますが、『音樂』筆写譜を見た編集者がこの右手和音にアクセントを付けるべきだと考えてそのようにした、と考えるのは、想像にすぎないとも言えそうです。
 このアクセント記号からはむしろ、昭和4年出版譜の編集者が1903手稿譜を見てそれに従ったという可能性を考えることができるかもしれません。ただ、もしそのように考えるとしても、ここまでに見てきたことから示唆される昭和4年出版譜と『音樂』筆写譜との連続性は否定しづらいように思えます。
 可能性としては、昭和4年出版譜の編集者が1903手稿譜と『音樂』筆写譜の両方を参照したということも考えられるかもしれません。しかし、もし1903手稿譜と『音樂』筆写譜の両方を参照することができたなら、なぜ1903手稿譜にあって『音樂』筆写譜にない各種の指示を1903手稿譜の記述のまま採用しなかったのか、1903手稿譜と『音樂』筆写譜とで食い違う箇所で『音樂』筆写譜のほうの記述を採用したのか、はなはだ疑問です。何か特別の事情があったならそうしたことがありうるのかもしれませんが(たとえば、誰か高名有力な人物が『音樂』筆写譜を作成し、昭和4年出版譜の編集者がその記述を採用しないわけにいかなかったなど)、あるいは昭和4年出版譜の編集者が今日で言うところの「原典主義」に立っていなかったのかもしれませんが(「原典」よりも自身の判断や後世の人の判断を重視するという立場はありえなくはないので)、どちらにしても相当に特別な話になり、そうした話の妥当性を積極的に主張するには特別な資料など追加材料が必要になると思われます。それよりは、1903手稿譜は参照できなかった、第36小節のアクセント記号は編集者の独自判断で加えられた、と考えるほうがまだ無理が少ないように思えます。
 
 もっとも、たとえば次のような可能性はなおあるかもしれません。すなわち、たとえば曲の冒頭にmfが書かれているような(のちの昭和4年出版譜と同様の強弱指示が書かれている)日付のない手稿譜Xが存在していて、昭和4年出版譜の編集時に『音樂』筆写譜とその手稿譜Xが編集者の手元にあったという可能性です。この可能性があるのであれば、編集者が『音樂』筆写譜に欠けている強弱指示を手稿譜Xから採用し、日付は『音樂』筆写譜から採用し、それ以外の音楽内容は2つの楽譜をそれぞれ適宜採用したり独自判断を加えて編集したその結果、昭和4年出版譜が成立した、ということも考えられるようになります。
 仮に『音樂』筆写譜が1903手稿譜を写したものであったとしても、手稿譜Xが瀧の自筆であった場合、特に1903手稿譜より後に書かれたものであった場合、手稿譜Xにはそれ相応の正統性があることになります。そうであれば、もし昭和4年出版譜がそうした手稿譜Xから強弱指示を採用したとするなら、昭和4年出版譜の強弱指示には相応の正統性が認められる必要があると考えられます。
 ただ、その可能性を真剣に考えるとすると、たとえば譜例3-1のシャープ位置をどう考えるかということも問題になってきます。手稿譜Xが瀧の自筆で、シャープが1903手稿譜と同じ第4拍に付されていた場合(ごくふつうに考えられるケースだと思います)、『音樂』筆写譜が瀧の自筆でないのは明らかなのに、なぜ編集者が『音樂』筆写譜の第3拍シャープを、手稿譜Xの記述を差し置いて採用したのか、ということが理解しづらいです。手稿譜Xの記述が第3拍シャープだったとすれば理解は容易になりますが、それは、なぜ『音樂』筆写譜と手稿譜Xとが(そしてその2つの楽譜だけが)その点において一致しているのかという新たな謎を増やすことになります。
 そのようなややこしい可能性を考えて「謎」を増やすまでもなく、1903手稿譜を『音樂』筆写譜が写して、昭和4年出版譜が『音樂』筆写譜だけを参照して作られた、と考え、部分的に残る疑問点は昭和4年出版譜の編集時の判断によるものと考えれば、ほかの可能性よりは事態がすんなりと理解できると私は考えます。
 
 なお、『音樂』筆写譜と昭和4年出版譜、そして最近の出版譜までは見られなかった第58小節から第60小節にかけての8va記号が、一部の現行譜で「復活」しています。ページ2の注にも書きましたように、全音ピアノピース版では、この8va記号は1979年ごろの版では見られず、現行のピアノピースでは見られます。これについては、瀧の自筆譜の存在が近年知られるようになったこと、またこの部分が8va記号なしだと動きとして不自然であることなどから、最近の版で修正が加えられたのではないかと考えられます。
 

継承説と1903手稿譜の「正統」性

 この継承説はあくまで仮説であり、もう少し複雑な別の仮説を考えることができるかもしれません。1903手稿譜とはやはり別に、昭和4年出版譜や『音樂』筆写譜の起源となった楽譜があるのだと考えることも、なおできるかもしれません(それが瀧の手稿譜であれ誰かの筆写であれ)。
 継承説を正しいとするには、『音樂』筆写譜が1903手稿譜を底本としたこと、昭和4年出版譜が『音樂』筆写譜を底本としたことの、証拠の提出、ないし何らかの仕方での証明が必要でしょう。これにはいくつかのアプローチがありうると思われます。この後の考察で、いま私が入手できている資料の範囲で、この継承説についてさらに検討を加えます。その中で、今度は「メヌエット」の自筆譜について触れます。
 
 一方、こうしたこととあわせて、1903手稿譜それ自体の「正統」性が検証される必要もあるでしょう。
 ページ2に書きましたように、現在、公刊・公開されている1903手稿譜は「コピー」です。『瀧廉太郎 資料集』(文献リスト)に掲載されている手稿譜図版の原本自体がコピーであり、現物の所在についてはどの文献にも述べられていません。
 1903手稿譜のコピーしか見ることができない状況においては、その譜面から読むことができる音楽内容のうち、果たしてそのすべてが瀧自身の筆になるものかどうかについて、疑問をさしはさむ余地が生じます。たとえば後年の編集者・写譜者が譜面に書き込みをしていて、それがコピーの紙面上で瀧の自筆と区別できないという可能性があります(実際、1903手稿譜には、「?」マークなど、瀧本人が書いたとは考えにくい書き込みが若干見られます)。つまり、1903手稿譜のコピーから読み取ることのできる音楽内容のどれかが瀧の意図とはちがうものであるということがありえます。
 その意味で、もし1903手稿譜が上の継承においてたしかに起源であり、そのかぎりで「正統」であるとしても、現在私たちが目にすることができている1903手稿譜の譜面は一部で「正統」さを欠いている可能性もあります。今のところ私たちは1903手稿譜のコピー譜面を「信じる」ほかない状況にとどまっています。
 1903手稿譜がたしかに起源であるなら、今後は1903手稿譜に基づいて「憾」が演奏され鑑賞されるべきであると考えられます(注2)。1903手稿譜に基づく「原典版」の出版・公刊も実際に始まっています。いっぽうで、その1903手稿譜の記譜内容が果たして「正統」であるかどうかはまだ問題として残っています。その検証作業がなされる必要があると思われます。そのためには、1903手稿譜の現物、あるいは少なくともそのカラーコピーなどより良質の複製を、研究者や演奏家や「憾」に関心を寄せる方々がどこかで「見る」ことができる必要があります。そのようなことがいつか実現するのか私にはわかりませんが、たとえ私自身がそれらを「見る」ことができなくても、「憾」を真摯に理解しようとする方々がいつか1903手稿譜の現物や良質コピーにあたって「憾」の真の姿に近づくことができる日が来るように願っています。
 
 もっとも一般論として、そのような検証作業を精密に行ったとしても、現在(あるいは未来)の私たちが、瀧の書いた「憾」にどれほど近付けるのかは疑問が残ります。また、現行の版のほうが「音楽的により良い」ものであると評価し、それを演奏し鑑賞し続けるという態度もありえます。今後の演奏シーンにおいて、「憾」がもとの形(と目されているもの)を離れ、自在な姿をとることもまた佳しとされるかもしれません。
 そのこととは別に、「憾」が写譜者のミスや編集者の恣意で改変を受けてきた可能性について考えるとき、その改変を受けていない「憾」の姿を追い求めることも、また意義あることであるように思われます。山田耕筰による「荒城の月」の改作が問題視されるようになり、瀧の手になる「荒城の月」の「原曲」があらためて歌われるようになったいま、「憾」をはじめとした瀧廉太郎作品の「改変前」の姿を知る努力が多くの人によってなされることが、求められているのではないでしょうか。
 
 ここまで1903手稿譜と出版譜との関係を検討してきましたが、次のページ5では、継承説についてさらに検討を試みます。資料の性格上「傍証」にとどまりますが、それでもかなり強力な「傍証」ができると考えています。
 
ページ5に続きます)

 
ページ1へ  ページ2へ  ページ3へ  ページ5へ 

注:
(1) ただ、1903手稿譜よりも「後」に書かれた自筆譜が存在する/現存する可能性もあります。それらが事実現存していて、今後参照できるようになる可能性がもしあるのであれば、1903手稿譜の意義も変わってくると思われます。 
(2) 上の(1)を御参照ください。 

このページの改訂履歴:
2017年5月29日.  新訂第1版を掲載しました。旧版の考察を細かくして、ページの割り振りを変えました。旧版のページ4に書いていた1903手稿譜の「下書き」説など他の手稿譜の存在に関する議論は、明治35年10月の手稿譜(ページ6で取り上げます)の内容が一部判明したことを踏まえ、引き取ることにしました。今後必要が出てくればあらためて議論・検討をします。

筆者より:
...もしこのページの記載事項に誤った点があるようでしたら、ぜひお知らせくださいますようお願い申し上げます。情報・ご意見もいただければと思います。
いろいろ行き届いていない点が多々あるかと思います。素人仕事ですが、少しずつ検討とページ改良を進めていきますので、よろしくお願い申し上げます。

 
遠い遠い夢の世界... トップページへ

(c) 光安輝高(さんちろく), 2003−2017.